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ルートヴィヒ2世を廃位に追い込んだノイシュヴァンシュタイン城はいくらかかったのか?

Neuschwanstein snow Pixabay

【3つの城の建設費】
世界で最も有名な白鳥の城ノイシュヴァンシュタイン(1869年起工)は、その莫大な費用から「バイエルン王国の財政を傾けた」とよく書かれます。
この主張は誤りで、ほぼすべてのルートヴィヒ2世の伝記(日本語)でそのことが指摘されているにもかかわらず、抜きがたい誤解がネット記事に氾濫しています。
また、この財務問題を詳しく正確に説明した日本語の記事は、2022年末時点でネット上に見当たりませんので、ここで解説します。

まず、バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845-1886年,在位1864-1886年)が建設した3つの城のうちノイシュヴァンシュタイン城は最も安上がりでした。
その正確な建設費は以下の通りです。

・ノイシュヴァンシュタイン城(未完) 6,180,047 Mark
・リンダーホーフ城(1886年完成) 8,460,937 Mark
・ヘレンキームゼー城(未完)    16,579,674 Mark
               合計:31,220,658 Mark(典拠1)

ヘレンキームゼー城は70部屋中50部屋が未完成であるにもかかわらず、1886年6月の時点でノイシュヴァンシュタイン城よりも2.5倍の費用が掛かっていたのです。
なぜこんな差がついたのか?
実はノイシュヴァンシュタイン城の建設費も城館の部分が約200万マルクなのに対し、内装が約400万マルクで、豪華な内装の方が圧倒的に費用がかかっているのです(典拠2)。
ヘレンキームゼー城も同様に、庭園や城館より豪華な内装により多くの費用が掛かっており、例えば寝室だけで384,000 Gulden (=約65万マルク)の費用が掛かったとされます(典拠3)。
さて、1880年年代の1マルクは、2022年現在の日本円に換算すると何円ぐらいの価値があったのでしょうか?
私はおよそ3000円程度と推定します。
例えば、1880年頃のミュンヘンの3ルーム住宅の家賃は月40-50マルクだったので、現在の東京だと12万円~15万円ぐらいの価値だと考えて差し支えないでしょう(典拠4)。
1マルク=3000円で換算すると、ノイシュヴァンシュタイン城が約180億円、リンダーホーフ城が約250億円、ヘレンキームゼー城が約500億円ぐらいの費用ということになります。
1886年時点での3城合計の建設費は約940億円で、国王と言えど、バイエルンのような小国にとっては法外な額だということが分かります。

【建設費の資金源】
城の建設費をルートヴィヒ2世はどのように賄ったのか?
バイエルン王国政府に直接支払わせたのではありません。
19世紀後半の立憲君主制の時代ですから、国王の財布と国庫はすでに別なのです。
1834年の法律で、ヴィッテルスバッハ家には国家から王室費(Zivilliste)が支給されると定められており(典拠5)、その額が1876年以降は423万マルクでした。
しかしこの予算ですべての宮殿の維持費、王族の生活費、宮廷官吏や使用人の給料などを賄わなければならなかったため、ルートヴィヒ2世が自由に使えたのは年間約50-100万マルク程度でした。
他に父王マクシミリアン2世から相続した個人資産からの収益が年間約50万マルク。
さらにプロイセン王のドイツ皇帝戴冠を認めた見返りに宰相ビスマルクから秘密基金Welfenfondsを通じてもらっていた年金が年間30万マルクありました(典拠6)。
これらの資金をまとめていた国王官房金庫(Kabinettskasse)から、1869年~1883年までの15年間に約1500万マルクの建設費が支払われました。つまり平均で年間100万マルク程度の支出です。

【負債清算を巡って内閣と対立】
1880年代に城館や庭園が完成し、内装工事が進むと、ルートヴィヒ2世のこだわりもあって予想をはるかに超える費用が掛かることになりました。
1884年半ばには、未払いの費用が825万マルクに達し、債権者である建設会社、内装業者、家具職人、画家、金銀細工師等からの民事訴訟と官房金庫の差し押さえが差し迫った脅威となりました。
そこでバイエルン王国財務大臣Emil von Riedel(1832-1906,財相1877-1903)は、官房金庫を管理する宮廷顧問官(Hofsekretär)Ludwig von Bürkel(1841-1903, 顧問官1876-1884)にその脅威を指摘し、まず100万マルクをドイツ帝国宰相ビスマルクから緊急に援助してもらい、残る715万マルクを官房金庫を担保にバイエルンの銀行団に債券を発行してもらうことで乗り切ろうとしました(典拠7,8)。
この官房金庫債(Kabinetts-Kassa-Darlehen)には、1901年まで18年間かけて官房金庫から銀行に返済するという担保がつけられました(平均で年間約40万マルクの返済)。
この際、財務大臣は、問題の解決には速やかな支払いと新たな負債の回避しかない、と釘を刺したにもかかわらず、ルートヴィヒ2世は宮殿の内装工事等をさらに進め、1885年夏までに新たに659万マルクの未払い費用を生み出してしまいました。
これに加え、バイエルン王国の中央銀行であるBayerische Hypotheken- und Wechselbankでも76万マルクの借金をしています。
1886年6月時点で合計約1430万マルクの負債、現在の日本円で約430億円です(典拠8)。
莫大な未払い金が発生し、工事が進捗しなくなったので、ルートヴィヒ2世は問題の解決を財務大臣に直接依頼することにしました。
1885年8月29日付の手紙で以下のように書いています。

国王として余が望むのは、余の指示に基づいて行われている建設工事が滞りなく続行し、完成を見ることである。
この計画はしかし余の官房金庫が思わしくないために滞っておる。
余は大臣であるそなたに、財務の調整に必要な措置を取り、余の事業を支援することを依頼する。
Mein königlicher Wille ist es, daß die von Mir unternommenen Bauten nach Maßgabe Meiner getroffenen Anordnungen angemessene Fortsetzung und Vollendung finden.
Dieses Mein Vorhaben erleidet aber eine wesentliche Hemmung infolge des ungünstigen Standes Meiner Kabinettskasse.
Ich beauftrage Sie, Herr Minister, die nötigen Schritte zur Regelung der Finanzen zu tun und so Meine Unternehmungen zu fördern.

財務大臣はしかし9月3日付の返信で、自分には「あらゆる支出の厳しい制限以外の改善策を示せない」と明言し、これ以上の支援を断りました(典拠9)。
この返答に立腹したルートヴィヒ2世は財務大臣を罷免するように指示したと言われています。
この1885年8月29日の手紙は、ルートヴィヒ2世の後の悲劇に決定的な意味を持ったと後世の歴史家たちは考えています。
何しろ、国王が大臣に個人的な財務問題の解決を直接依頼したわけですから、個人的な財務問題が国政の問題に変わってしまったのです。
ルートヴィヒ2世としては、財務大臣が以前のように個人的に奔走すればよい、と単純に考えていたのでしょう。
しかし虎の子の国王官房金庫にはすでに銀行の担保がついており、これ以上自家では解決できないまでに負債が膨らんでしまったのです。
1885年12月、ルートヴィヒ2世はついに国政の最高責任者であるバイエルン首相Johann von Lutz(1826-1890, 首相1880-1890)に問題の解決を依頼します。
これに対して彼は、1886年1月6日付の宮廷顧問官Ludwig von Klug(1838-1913, 顧問官1885-1886)宛の覚書で以下のように書いています。

「もっとも簡単な解決方法である国庫からの前払いは、法的な権限付与なしにはもちろん考えられません。・・・
王国議会から、陛下が望まれる約2000万マルクあるいは負債の返済に必要な600万マルクの支出の許可を得るのが可能かどうかは疑問であります。・・・
陛下が宮殿の内装工事を一時停止し・・・負債返済の資金を得られるようにしていただければと存じます。」
Vorschüsse aus Staatsfonds sind selbstverständlich auf dem einfachen Wege des Zugriffs ohne gesetzliche Ermächtigung undenkbar. [...]
Es bleibt sonach fürs erste nur noch die Frage übrig, ...ob es nicht möglich sei, vom Landtage die Bewilligung der von Seiner Majestät dem König gewünschten Summe von circa zwanzig Millionen Mark oder doch der zur Schuldentilgung erforderlichen sechs Millionen Mark zu erlangen.[...]
wenn Seine Majestät in Gnaden geruhen wollen, den Ausbau der begonnenen Schlösser und deren Einrichtung auf einige Zeit zu sistieren, [...]
und dadurch verstärkt Mittel zur Heimzahlung der Schulden zu erlangen.
(典拠9)

首相のにべもない回答にルートヴィヒ2世は憤慨し、その諫言を一顧だにしない一方で、首相は国王廃位に向けてひそかに動き出す、とここからはよく知られた歴史になります。
その話は置いておいて、首相の回答では、国庫Staasfondsから国王の私的な宮殿の建設費を支給しないことを強調しており、19世紀後半の立憲君主制の時代には、すでに国家財政と国王の私的な支出をはっきりと分けることが当然であるという考え方に立脚していることが分かります。
したがってルートヴィヒ2世の城の巨額の建設費はバイエルン王国の財政を傾けたのではなく、内閣が法を盾に拒絶したことで、国家財政の圧迫に至らなかったのです。

【国王死後の負債の返済】
以上のように、ルートヴィヒ2世はバイエルン王国の国家財政を傾けたのではなく、あくまでヴィッテルスバッハ王家の遺産や王室費、さらにプロイセンからの資金を使って3つの城を建設したのでした。
そして巨額債務の解決を大臣に依頼したことで対立が深まり、廃位に追い込まれたのです。
ちなみに659万マルクの負債は、ルートヴィヒ2世の死後、約100万マルクが交渉により減額され、約200万マルクが後継王オットー1世の個人資産を担保にした債券で、残る350万マルクもBayerische Hypotheken- und WechselbankとSüddeutsche Bodencreditbankで債券が発行されて賄われました。
そして1894年までに、王室費や城の入場料収入などから完済されたのです。
もちろん715万マルクの官房金庫債も1901年までに完済されています(典拠10)。
ヴィッテルスバッハ王家は、国庫からの追加支出なしに築城に関する負債を完済したのでした。

ドイツ観光局広報マネージャー 大畑悟

典拠1:Michael Petzet, Gebaute Träume. Die Schlösser Ludwigs II. von Bayern, München, Verlag Hirmer, 1995, S. 65, 151, 254.

典拠2:Petzet, S. 64-65.

典拠3:Petzet, S. 235.

典拠4:ユリウス・ディーズィング『王城ノイシュヴァンシュタイン』ヴィルヘルム・キーンベルガー出版社、1998年、6頁。

典拠5:Bayerisches Staatsministerium für Wissenschaft und Kunst, „Gesetz, die Festsetzung einer permanenten Civilliste betr.“

典拠6:Gerhard Immler, "Königskrise (1885/86)", Historisches Lexikon Bayerns

典拠7:Bayerisches Staatsministerium für Wissenschaft und Kunst, "Entmachtung und Tod Ludwigs II."

典拠8:Cajetan von Aretin, "Wie wird man einen verschwendungssüchtigen König los?", Bayerische Staatszeitung

典拠9:Rudolf Sponsel, "Die Schloßbauwut und das Finanzdebakel der "Zivilliste"(Hof & Kabinettskasse)"

典拠10:Cajetan von Aretin,"Warum das bayerische Königshaus beinahe pleite gegangen wäre", Bayerische Staatszeitung

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