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ノイシュヴァンシュタイン城と名付けたのは誰か?

雪のノイシュヴァンシュタイン城

ノイシュヴァンシュタイン城(和訳すると「新白鳥石城」)が、建設者であるバイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845-1886年)の死後に正式に命名されたということは、それこそウィキペディア「ノイシュヴァンシュタイン城」日本語版にも載っている有名な話です。ルートヴィヒ2世が死去した1886年6月の時点で城はまだ完成しておらず、正式に命名する段階ではなかったのです。
ノイシュヴァンシュタイン城研究の第一人者であるドイツの歴史家Marcus Spangenberg氏の研究によれば、「ノイシュヴァンシュタイン」という名前は、ルートヴィヒ2世自身が書いた文章の中では見つかっていません。
彼自身は、「Neue Burg Hohenschwangau(ホーエンシュヴァンガウ新城)」または単に「Neue Burg(新城)」と呼んでいました(典拠1)。
バイエルン国王ルートヴィヒ2世の死後、バイエルン王国政府はノイシュヴァンシュタイン城を接収し、1886年8月1日付で一般公開(有料)に踏み切りました。ルートヴィヒ2世が築城のために作った借金を返済するためです。
一般公開の直後、1886年8月5日付で出版されたガイドブックのタイトルにはすでに「ノイシュヴァンシュタイン」の名が明記されています。そしてこのガイドブックの中で城の命名の経緯が解説されていますので、少し長くなりますが該当箇所を以下の通り和訳引用します。

「二つの城、つまり新旧の王城はホーエンシュヴァンガウ宮殿(旧)Schloss Hohenschwangau (alt)とホーエンシュヴァンガウ城(新)Burg Hohenschwangau(neu)と呼ばれている。
後者については、長らくノイシュヴァンシュタインNeu-Schwansteinの名で一般化しているので、混同を避けるため、ここでもこの名を使うことにしたい。
最近になってノイシュヴァンシュタインという名は公式に用いられるようになった。〔中略〕
ノイシュヴァンシュタイン城は、古城シュヴァンシュタインの城址の上に建てられた。」(典拠2)

引用最後の一節「ノイシュヴァンシュタイン城は、古城シュヴァンシュタインの城址の上に建てられた」は事実関係を誤認しており、正確には「古城ホーエンシュヴァンガウの城址の上」です。「ノイシュヴァンシュタイン」という名前は、古城ホーエンシュヴァンガウと古城シュヴァンシュタインを取り違えたために生まれた名前だったのです。
ここまでは、しかし、よく知られた話です。ここで問題なのは、誰が最初に「ノイシュヴァンシュタイン」という誤った名前を使ったのか、なぜそれが一般化したのか、です。
1886年になってから「ノイシュヴァンシュタインという名は公式に用いられるようになった」のは事実ですが、実は「ノイシュヴァンシュタイン」という名前は遅くとも1880年8月にはすでに、Augsburger Abendzeitung(アウクスブルク夕刊新聞)という地方新聞で用いられていたことがSpangenberg氏の調査で分かっています(典拠3)。その後、1886年まで、様々な新聞雑誌で「ノイシュヴァンシュタイン」という名前が使われてきました。
つまりマスコミが、国王の公式発表がなされる前から「ノイシュヴァンシュタイン」という誤った名前を無断で使い続け、ついには一般化して正式名として採用されることになったのです。
バイエルン国王ルートヴィヒ2世はワーグナーのオペラ・白鳥の騎士ローエングリンに心酔し、その中に登場する聖杯城(Gralsburg)を現出させるためにノイシュヴァンシュタイン城を建てたと言われており、事実、手紙等でも「聖杯城」の名前を書いています。
あるいは王は、城が完成した後、正式に「グラールスブルク(聖杯城)」と命名したかったのかもしれません。また幼少期に過ごしたホーエンシュヴァンガウ城を気に入っていましたから、やはり「ホーエンシュヴァンガウ新城」と名付けるつもりだったのかもしれません。
マスコミが勘違いしてつけた「ノイシュヴァンシュタイン」と名付けるつもりは死ぬまでなかったでしょう。
しかし現実には、ルートヴィヒ2世は借金の清算問題で対立していたバイエルン王国政府によって禁治産者と宣告され、逮捕されて城から追われてしまいます。そこで彼は、文字通り命を懸けて建設した城の名付け親の権利も剥奪されてしまったのです。ノイシュヴァンシュタイン城はよくルートヴィヒ2世の墓標になぞらえられますが、その墓碑銘は生前彼の望んだものにはならなかったということです。

ドイツ観光局広報マネージャー大畑悟

【引用文献】
典拠1:Marcus Spangenberg, Schloss Neuschwanstein oder: Wie ein Symbol entsteht, Bernhard Lübbers, Marcus Spangenberg (Hg.), Traumschlösser? Die Bauten Ludwigs II. als Tourismus- und Werbeobjekte, Dr. Peter Morsbach Verlag, Regensburg, 2015, S. 101, 117

典拠2: Johann Nepomuk Zwickh, Herrenchiemsee, Neuschwanstein und Linderhof, die Lieblingsschlösser weiland Königs Ludwig II., Amthor’sche Verlagsbuchhandlung, Augsburg, 1886, S.30
電子版

典拠3:Marcus Spangenberg, S.99

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